記憶

チェンソーマン』をアニメと漫画で5巻くらいまで読みましたが、今のところ一番怖いのは永遠の悪魔です。

永遠の悪魔はホテルの8階を乗っ取っていて、デビルハンターを取り込みます。取り込まれてしまうと、エレベーター・階段・窓からの飛び降りなど、ありとあらゆる手段を以てしても8階から脱出することはできません。主人公のデンジ達デビルハンターは、次第に飢餓と衰弱に苦しんでいきます。

私がはじめて見た時は、なにか根源的な恐怖にとらわれたのみで、そのグロテスクでも猟奇的でもない悪魔の何が恐ろしいのか言語化できなかったのですが、最近やっと、鬱的思考の象徴的な類似だと考えることができました。

 

鬱的思考はよくトラウマと合わせて考えられていますが、私の中ではその両者は少し違ったものと区別しています。トラウマは、非常に一回的なある出来事が、その衝撃のために当人の中で永続して傷んでしまうものと考えています。そして鬱的思考は、これもある出来事が、どんどんその範囲とシナプスを広げ、関連付けを際限なく行ってしまうものと考えます。どちらも傷みではありますが、具象化するならば、トラウマは痣で、鬱的思考は癌の腫瘍という感じです(この区別および具象化はどちらの傷みが重いといったような、症状の軽重や重篤さを価値づけする意図はありません)。

 

会社を辞めてから、鬱的思考と自己否定にとらえられることが、やっぱりあります。別に何かあった、というわけでもないのですが、会社という場所、もしくは労働ということ自体が私にとっては鬱的スパイラルへのトリガーとなるようです。少しの引っかかりから、または表面的な出来事は何もなくても、一つ思い出すことで、また一つ、そしてまた一つと、そこから記憶と記憶のループが始まり、同時にその記憶とまた別の記憶の関連付けが何かによって行われ、そしてある記憶を契機に眠っていた別の記憶が掘り起こされ、鬱的思考は自己の存在を食い物にして無限増殖を始めます。ただ家に引きこもっているだけなのに、寝ているだけなのにそこでは鬱の無限地獄が広がっていくのです。

 

その鬱的思考と無限性、自己増殖性が『チェンソーマン』の無限の悪魔とかぶって見えるのです。悪魔が人間の恐怖を糧に力を得ていくという設定も、無限の悪魔がデンジの心臓=死を要求する点も。

 

記憶といえば、もう一つ思い出すことがあります。大学三年のときのゼミの授業で、先生が「人間にできてAIにできないことは何か」と問われました。身体、道具、感情、言語と色々な意見が出ては消えていく中で、一つ上の先輩が「忘れることです」とお答えしたことです。

その賢い先輩のお考えになることは、私には勉強の及ばない範囲だと思いますが、そこから私なりに考えることがあります。「忘れる」という状態は、かなり微妙なことだと思います。その状態は、まず一度出来事を保存した状態があり、かつ、それを再生不可能な状態に置いておくことだと定義できると思います。つまり、一回性をもつ出来事を、自己の中で非永続的なものと変容させるダイナミックな行為なのではないのでしょうか。「消去する」という、出来事を瞬間的な一回性と終わらせることと比べてみると良いと思います。

 

忘れるにはどうしたらよいのか、つまり、一回性をもつ出来事を、非永続的なものと変えるにはどうしたら良いのか。それには、喪の作業が必要になってくるのだと思います。どうしても覚えていてしまう、引き摺ってしまう出来事を、終わったものと、永続しないものと自己の中で葬っていく、ある種の過去の時間の、歴史の、そしてその歴史に関わる自己の弔いが必要なのではないかと考えます。過去の自己の傷みを再体験するのではなく、その部分を現在の自分と透徹して切除していくこと、接続されてしまった記憶のシナプス回路を一つ一つ外していくことが、忘れていくことなのだと思います。忘却は、決して風化ではなく、途方もない作業を要するものであり、無意識下の戦いの賠償なのでしょう。