墓穴

「非日常」という言葉が最近キラキラしてきたと思います。体験型施設やホカンスなどのサービス、旅行などの特別感をコーティングする広告として使っているみたいです。「非日常を味わう」なんて言い回しも珍しくなくなってきたようです。

思えば、2021年と2022年には何も面白いことはなく、ただ本当にもう目茶苦茶で、民主主義の国でも社会主義の国でも関係なく多くの小市民によって「日常」は地獄みたいなものだったのだろうと同情してしまいます。毎日に立ち込める閉塞の霧は誰がどうすることもできないもののように思えます。

ただ、さかのぼれば、2020年のコロナウイルス感染症のはやり始めた、その時では「日常」という言葉はそんなにも気詰まりな雰囲気のするものでは無く、むしろ「日常」は守るべきたっといものとして声高に呼びかけられたようにも記憶しています。「みんなの日常を守ろう」とか「日々の生活を大切にしよう」という全体主義に乗って、「日常」こそが鈍く淡く輝く、そして失われつつある珍しい宝石か絶滅危惧種みたいに言われていたと思います。そして「非日常」を求めて、例えばバーベキューをするとか、遠くの親戚に会いに行くとかいったことは批判の対象になりました。

そもそも「非日常」に話を戻せば、非-日常というだけで、そこには価値観の入る余地もないようですが、感染症どうこう以前からやっぱり日常は嫌なもののようで、「日常」は単調でつまらなく、「非日常」は何か珍しく価値のあるもののようにこぞって言われ、求められいたと思います。それがここ最近、さらに「非日常」という言葉がさらにキラキラしているんではないかと言いたいのです。政治や広告は置いておいて、あくまでレトリックとしての話です。

 

「日常」がつまらないときは「非日常」はすばらしく価値のあるもので、「日常」を大切にすべきときは「非日常」は求めてはいけないものになる。こんな風な「日常」と「非日常」の関係は、微妙な力加減で引きあう綱引きか、乗っている人がコロコロ変わるシーソーのように絶えず緊張関係を保ちながらバランスがとられています。

普通だったら、人間の生存本能にや種の保存に従って、「日常」の安定を保つ方に重きが取られていくんだと思います。コロナウイルス感染症で健康や命が脅かされたときに「日常」が大切だと呼びかけられたのが最たる例です。

ただ、今の第三次産業を考えると、「非日常」を推していかないとおまんまを食えない人々が溢れてしまいます。そこで、「日常から離れて非日常をやること」のすばらしさ、さらに言えば「非日常をしないこと」の貧しさを喧伝していくのだと思います。「日常」のおもりをはずして、「非日常」の欲望へと引っ張り込む、そんな力学で動いている産業がいくつもあります。

瀬地山角先生は「欲望は社会によって作られる」とおっしゃっていました。語学スキルを広告するから島国のリーマンが外国語を学ぶ、薄毛治療を呼びかけるから禿に悩む、脱毛キャンペーンをするからムダ毛という概念ができる、エトセトラ

恐ろしいのはレトリックは第三者から来て、私の欲望に形を変えてしまうところです。日常から非日常に引っ張り込まれても、自分の行為だから自分でケツを拭かねばなりません。

 

広告代理店へのとりとめのない悪口のようになってしまいましたが、あまりにもレトリックによる墓穴が多すぎるように思うのです。誰かによって土を軟らかくされた土壌に、墓穴を掘ってしまうことのないよう、老婆心ながら申し上げます。現代はデカダンもやりにくくなって困ります。